茶筌の由来

History of Chasen

百本立

茶の道といえは千利休、そして、茶筌の歴史も500年にも及ぶ。奈良の最北端富雄川の清流の発する所が、全国唯一の「茶筌の里 高山」です。現在そのシェアは99%にものぼります。

室町時代中期、高山の城主頼栄の次男・宗砌が村田 珠光の依頼によって作ったのが、高山の茶筌の始まりと伝えられています。珠光が後土御門天皇の行幸を仰いだ時、先づその茶筌を供したところ「高穂」と云う銘を賜ったのです。後にこの光栄を永く後世に伝えんため「鷹山」の地名を「高山」と改めました。その後没落の非運に遇いましたが、家臣が習い覚えていた茶筌作りのため離散をまぬ がれ、以後一子相伝の技として伝えられました。その関係で現在全国唯一の茶筌の里として残っているわけです。

明治以後におきましても歴代天皇並びに宮様方にも献上し、今上陛下奈良行幸の際には御前製作の光栄に浴し、万国博にも出場出展し、世界各国の人々に日本人独特の「指頭芸術」の粋を披露し多くの賞讃の言葉を頂きました。 時代を経て、高山の里は全国唯一の茶筌の産地となり、 昭和50年には国の伝統的工芸品の指定を受けました。 現在は各流派により60種以上の茶筌が作られています。

私達は先に申し述べました通りの歴史を持ち、又伝統産業としての輝かしい誇りを持続し、永く子孫に継承して行く心構えで居ります。